【備中松山城】登城記
2009年11月21日(土)
日帰りで12現存天守の一つ備中松山城を登城しました。
このお城は12現存天守の中では最も高いところにあるお城で、標高430mの山頂にあります
11時30分登城開始

ふいご峠までのシャトルバスの駐車場は、とても賑わっていました。
さらにそこから、くねくねの山道をシャトルバスでふいご峠まで向かいましたが、 平日であればマイカーで行けるようです。
駐車場からは登城道を、徒歩で天守閣へ向かいます。

いくらも登らないうちに、息が切れている私です(-_-;)



けっこうな年配の方が登城されています。
きつそうです。
大手門跡

自然の地形を利用した石垣は見どころの一つです。

備中松山城は自然の地形を巧みに利用して築かれているが、なかでも大手門はその典型。山麓から続く登城道に対し、大手門が東を向いて構えているので、進入が矩折(かねお)りとなり、内部は踏面(ふみづら)の長い石段と高い石垣でまわりが囲まれ、半ば枡形構造となっている。



二の丸まで上り、眼下を望むと山の平櫓東土塀が見えます。
これは現存の土塀です。
二の丸

二の丸まで上ってくると天守が見えてきました。
本丸

午後12時00分 本丸まで上って来ました。
現存天守が目の前です。
このお城の歴史は古く、鎌倉時代の延応2年(1240)秋庭氏により臥牛山のうちの大松山に砦が築かれたことに始まります。 その後、小松山に移り、天正2年(1574)に起こった「備中兵乱」時は臥牛山全域が一大要塞となっていました。当時の三村氏が滅んだあとも、毛利氏の東方進出の拠点として、また毛利氏が防長2国に退いてからも、備中国奉行として赴任していた小堀正次・正一父子により修改築がなされるなど、備中の要衡としての役割を担っていたようです。現存する天守などは天和3年(1683)に水谷勝宗により修築されたものと伝えられています。現在一般に「備中松山城」と呼ばれるのは小松山の山頂(標高約430m)を中心に築かれた近世城郭を指し、天守現存する山城としては随一の高さを誇っています。
天守内部

天守の内部へ入り、地下一階にある階段を使って一階へ登ると、内部には珍しい囲炉裏がありました。
ただしほとんど使用されなかったそうです。

ひどいピンボケです。

以上で登城を終え、武家屋敷を訪ねてみました。
武家屋敷

この建物は、今から170年前天保年間に建てられたもので、200石前後の武士が住んでいました。




江戸時代中期から後期にかけて、120石から150石取りで、近習役や番頭役などを務めた武士の住宅です。


右上の山頂が備中松山城です。
よくあんな山の上に建設できたものだと感心しました。
ほんとに昔の人は偉い!