【備中松山城】登城記2

2014年2月23日(日)
備中松山城は、4年前私が「お城めぐり」を始めて最初に訪ねた現存天守です。
当時、病み上がりの私は、 天守まで上る坂道がきつかったことを覚えています。

今回は登城済みのお城ですが「100名城スタンプ」を押印するためと、備中松山城には更に奥に『大松山城(おおまつやまじょう』があるので、併せて登城することにしました。

≫備中松山城データ

ふいご峠駐車場

ふいご峠への道

鬼ノ城から車を走らせ約1時間で高梁の町に到着しました。
ナビも設定し、以前に訪れたこともあったのですが、少し迷ってしまいました(^_^;)

今回もふいご峠へのシャトルバスに乗るつもりで城見橋公園車場へ向かいました。
ところが、駐車場の入り口前で、係りのおじさんからそのままふいご峠へ上るよう指示されました。
尋ねると、シャトルバスは3月からでした。
マイカーでそのまま行けるのはよかったのですが、記憶では道幅が狭かったような気がしたので、喜んでいいのやら…。

ふいご峠駐車城からの遊歩道入り口

心配しながらふいご峠へ向かいましたが、運よく対向車に一度も遭遇することなく駐車場へ到着できました。
しかし駐車場は満杯で、係員の方の指示に従いやっと路肩に置くことができました。
ふいご峠の駐車場は14台分だそうですのですぐに満車になると思います。

10時30分 登城開始

遊歩道入り口

ふいご峠の駐車場から遊歩道へ上っていきます。
表示板には「700m、20分」と表示されています。

ふいご峠駐車場

さて、入り口から坂道を登り、下を見ると駐車場が見えました。
けっして広くないですね。

遊歩道

遊歩道はでこぼこしたところもあり、また石段の分部のもあるので、運動靴が必要ですね。中にはハイヒールで登城している方を見かけましたが、避けた方がよいでしょう。

遊歩道

石段もあります。

上太鼓櫓跡の石垣

11時40分 上太鼓櫓の石垣が見えてきました。
しかし、ここはまだ中間点とのこと。

城主の登城心得

『この辺りがちょうど中間点である。しばし休まれよ』
道沿いの立て札を見ると城主からの「登城心得」として「しばし休まれよ」とのお言葉。

いっぷく(ーー;)

上太鼓櫓跡

上太鼓櫓跡
上太鼓櫓跡

上太鼓櫓跡まで上って来ました。
弁当を食べている人たちもいます。

今日は天気もよく2月とはいえ暖かいので、きっと美味しく頂けたのではないでしょうか。
私もお腹が空いていましたが、我慢して登ります(-_-;)

大手門手前にある説明板の絵
岩盤上に築かれた石垣

11時50分 大手門跡まで上って来ました。
見上げると木々の向こうに白い土塀が見えます。
このお城の見どころの一つだと思います。
岩盤の上に石垣が築かれ、さらに土塀があり感動ものです!

大手門

大手門入り口
崩落の心配のある高石垣と岩盤

二の平櫓跡から見上げると、岩盤上に築かれた白い土塀がまぶしいです!

この岩盤の上に築かれた石垣が崩落しかかっていることが最近判明し、調査の結果岩盤そのものも崩れかけているそうです。
それを監視するためのセンサーが設置されており、20分間隔でチェックしているそうです。

二の平櫓跡

現存土塀

二の平櫓と三の櫓を繋ぐ現存土塀

12時00分 大手門を上ると二の平櫓の現存土塀を見ることができます。
三の平櫓まで土塀が続ていますが、 手前側の5mぐらいが現存だそうです。

上番所跡
三の平櫓跡

三の櫓から二の丸までの石垣を見上げると迫力があります。

黒門跡

黒門跡

三の平櫓、黒門跡と上ってきました。

黒門と四の平櫓跡(奥)
御膳櫓跡

二の丸

二の櫓門跡

11時55分、二の丸まで上ってきました。

備中松山城復古図

 

復古図を拡大

本丸までには多くの櫓があることが分ります。

 

五の平櫓と天守が見える

二の丸から見る『五の平櫓』と天守の構図は、備中松山城の紹介写真で使用されています。

二の丸から見る三の丸と現存土塀
五の平櫓

券売所、スタンプ設置場所

券売所、スタンプ設置場所

五の平櫓横の階段を上ったところに、券売所があります。<料金は300円/大人>

100名城スタンプもここにあり、受付の方にお願いすると出してもらえました。

備中松山城スタンプ

ブックカバーを外し、慎重にスタンプを押し、綺麗に押印できました(^_^)

本丸

本丸南御門

天守が見えます!

六の平櫓跡
七の平櫓跡
八の平櫓跡

本丸内を一回りしてみました。
平櫓跡がたくさんあります。

本丸東御門

本丸に出入りできる東側の門です。

現存天守 備中松山城

現存天守 備中松山城
 このお城の歴史は古く、鎌倉時代の延応2年(1240)秋庭氏により臥牛山のうちの大松山に砦が築かれたことに始まります。 その後、小松山に移り、天正2年(1574)に起こった「備中兵乱」時は臥牛山全域が一大要塞となっていました。当時の三村氏が滅んだあとも、毛利氏の東方進出の拠点として、また毛利氏が防長2国に退いてからも、備中国奉行として赴任していた小堀正次・正一父子により修改築がなされるなど、備中の要衡としての役割を担っていたようです。現存する天守などは天和3年(1683)に水谷勝宗により修築されたものと伝えられています。現在一般に「備中松山城」と呼ばれるのは小松山の山頂(標高約430m)を中心に築かれた近世城郭を指し、天守が現存する山城としては随一の高さを誇っているそうです。
ー備中松山城の歴史についてパンフレットよりー

 

前回登城したときは、弁当を食べる人々で賑わっていましたが、今回は閑散としていました。

さて、12時10分 これから天守へ入ってみます。

天守内部見学へつづく≫〔2〕

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