原城

概要
原城は 日野江城の支城として有馬貴純により築かれた。有馬氏が転封後、代わって領主となった松倉重政は、不便な日野江城から島原へ移り、廃城とったと同時に原城も廃城となった。
寛永14年(1637)に勃発した島原の乱では一揆軍の立て籠もる城として使用された。
島原の乱の後に、幕府は原城跡に残存する石塁などの破却を行っている。
現在は石垣、空堀が残っている。
データ
所在地 | 長崎県南島原市南有馬町乙437 |
築城年 | 明応5年(1496) |
別名 | 日暮城 |
形態 | 梯郭式平山城 |
天守構造 | 独立式望楼型4重5階) |
主な城主 | 有馬氏 |
主な遺構 | 石垣、空堀 |
アクセス
所在地 | 長崎県南島原市南有馬町乙437 |
車 | 国道251号線沿い、南有馬町にはいると案内あり |
電車 | |
ウェブサイト | 長崎旅ネット |
駐車場

スタンプ設置所
有馬キリシタン遺産記念館 エントランスホール [地図]
見どころ
空濠

島原の乱の際に防衛のため、蓮池と通じて本丸を孤立した「島」にするため、築かれたものです。
籠城の間は竹や木で柱を建て、カヤでその上を覆い、老若男女などの非戦闘員を収容していたところだそうです。(空濠説明板より)
ほねかみ地蔵

本丸の正門石垣の上に立つ地蔵様。
各地から出る一揆の遺骨を集めて、供養したとされている。
「ほねかみ」とは骨を噛みしめるという意味。
櫓台跡

石垣が飛び出ている所が櫓台跡。
天守のようなものが建っていたと思われている。
天草四朗の像

北村西望(きたむらせいぼう)の作品。
わずか15歳の天草四朗が、一揆のシンボル的な存在として迎えられ、幕府軍と戦った。
天草四朗の墓碑

小西行長の家臣、益田甚兵衛好次の子で、本命益田四郎時貞といい洗礼名はジェロニモかフランシスコなどといわれてる。
比較的恵まれた幼少時代を送り、教養も高かったといわれ、また長崎へ行って勉強したとありますが、詳細は不明。
島原の乱に際し、若干15才という若さで一揆軍の総大将として幕府軍と対立した。
一揆軍は88日間この原城に籠城したが、圧倒的な幕府軍の総攻撃により終結した。
四郎はこの本丸で首を切られ、長崎でもさらし首にされた。
この墓碑は、西有家町にある民家の石垣の中にあったものをこの場所にうつしたもの。 -南有馬町教育委員会-
三体のお地蔵

中央の石像は天草四朗とのこと。
見つめている先は天草四朗の生まれ故郷大矢野島。
周辺観光スポット
小浜温泉
登城記

2015年10月31日(土)
島原城に続き、今回は島原の乱の舞台となった原城編です。
午後2時、島原城を出発し、国道251号線を下り原城へ
登城記を読む≫お城めぐり 【原城】