関ヶ原

概要
豊臣秀吉の死後発生した豊臣政権内部の政争に端を発したものであり、毛利輝元を総大将とし宇喜多秀家・石田三成らを中心に結成された西軍と、徳川家康を中心に構成された東軍の両陣営が関ヶ原での戦いを含め各地で戦闘を繰り広げた[注釈 2]。この戦役の結果、豊臣政権は統一政権の地位を失った一方、勝者である徳川家康は強大な権力を手に入れ、幕藩体制確立への道筋が開かれることになる。東西合わせて20万近い兵力が激突した戦国最大の戦だったにも関わらず、勝敗は半日ほどで決着している。-「関ヶ原の戦い」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』より-
アクセス
所在地 | 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原 |
車 | 名神関ケ原インターより車で5分 |
電車 | 交通アクセス:JR東海道本線関ケ原駅より徒歩8分 |
ウェブサイト | 関ヶ原町歴史民族資料館 |
関ヶ原町歴史民族資料館

関ヶ原合戦時屏風とか甲冑などが展示されている。また、合戦時の両軍の陣形と戦いの流れをジオラマで解説しているので分りやすい。
各陣跡の見学前に訪れることをお勧め。
参戦武将の陣地跡
徳川家康最後陣跡

家康は当初桃配山(ももくばりやま)へ陣を置いていたが、午前11時頃にこちらへ陣を動かした。また、ここでは関ヶ原の戦いで大勝した家康が、論功行賞の判断材料とするため、床机(しょうぎ)に腰掛け、味方が討ち取ってきた敵将を自ら首実験をした。
田中吉政陣跡

徳川家康の陣跡のすぐ側に、田中吉政陣跡の碑がる。
田中吉政は吹山に逃走した石田三成を捕まえ、また、佐和山城を小早川秀秋と攻め落とした武将。
大谷吉継陣跡

三成の盟友、大谷吉継は、病身を押して参戦し三成への“義”を貫いた。
(このあたりの事は「大河ドラマ真田丸」でも描かれていました)
予想していた小早川隊の寝返りにも動じず応戦するが、配下の脇坂隊らの攻撃により軍は混乱。
あえなく自害した。

このお墓は敵方藤堂家が建てたもので、右の大きいお墓が大谷吉継で、左は湯浅五助のお墓。
一説では五助が吉継の首を埋めるところを藤堂高虎の甥、藤堂仁右衛門が発見したが、五助は自分の首の代わりに吉継の首は秘密にしてくれと頼み、自身の首を与えた。
後に家康は五助ほどの人物が、若武者に討たれたことを疑ったが仁右衛門は、最後まで事情を明かさなかった。
小早川秀秋陣跡

松尾山眺望所から小早川秀秋陣跡を望む。
正面1.5キロ先に望む標高293mの山が松尾山である。
関ヶ原合戦において、小早川秀秋が布陣したことで有名である。当時の遺構がほぼそのまま残っており、山頂に軍旗が翻っているのが確認できる。
吉継は予てから秀秋の二心を疑っていたので、自ら約二千の兵を率い下方山中村の沿道に出て、専ら秀秋に備えていた。案の定秀秋の兵一万三千が山を下り突撃してきたが、その大軍を麓まで撃退すること三度。ついに総崩れとなり吉継は自刃した。
こうして眼下で数倍の敵と互角以上の死闘を展開した大谷吉継の雄姿が偲ばれる。
開戦地

決戦の朝、霧が薄くなった8時頃、松平、井伊隊が動く。先鋒の福島隊の脇を通りぬけて発砲。
これに怒った福島正則が、宇喜多隊に対して一斉射撃をしかけたのがこの場所と言われている。
島津義弘陣跡

神明神社の裏側に、得意の鉄砲で次々と敵を狙撃した島津義弘隊の陣跡がある。
小早川の寝返りで戦況が一変すると、島津隊は東軍の中央を適中突破し、見事伊勢街道への脱出に成功する。
決戦地の石碑

小早川の寝返りにより東軍優勢となり、西軍の敗北が見えてきた関ヶ原合戦。
三成の首を狙う東軍諸隊が笹尾山を目がけて突進したことにより、ここ激戦が繰り広げられたと言われている。
石田三成陣跡


関ヶ原を一望できるこの場所に、石田三成は本陣を置いた。
三成もこの風景を見たと思われる。
黒田長政・竹中重門陣跡


関ヶ原の戦いのとき、この山頂には長政と重門が陣を敷いた。
霧も晴れ上がった午前8時、ここから狼煙が上げられ、東軍諸隊の合図が出された。
同時に、西軍が陣取る笹尾山、北天満山にも狼煙が立ち昇り、東西軍はいっせいに、正面の敵との戦闘を開始した。
訪問記 (関ヶ原へ行ってきた!)

2016年9月23日(金)
11時50分、関ヶ原町歴史民族資料館へ到着